太田道灌と山吹の里伝説
室町時代、若くして江戸城を築いた太田道灌が、鷹狩に出掛けた時の出来事です。
にわか雨に遭遇した道灌は、簑を借りようと一軒の農家の戸を叩きました。すると中から少女が現れ、庭に咲いていた一輪の山吹の花を差し出したのです。花ではなく蓑が欲しいのだ、と立腹した道灌は立ち去るのですが、実は、少女の行為にはある意味が込められていました。
七重八重 花は咲けども山吹の み(実)のひとつだに なきぞ悲しき -後拾遺集-
山吹の花は七重八重に咲くのに実が一つも結ばない、という古歌にかけ、私の家は貧しくてお貸しできる箕(実)がありません、という意味を山吹の花に託したのです。
家臣よりこのことを知った道灌は己の無学を恥じ、以降は歌道に励み、歌人としても名を馳せるようになりました。
そしてこの少女を城に招き、歌の友としたと伝えられています。
道灌の死後、尼となったこの女性は新宿大久保の地に庵を結び、この地に葬られました。
少女の名を取って「紅皿の墓」と呼ばれ、新宿区の指定史跡となっています。
追分・高井戸・太田道灌
この様な言い伝えを持つ太田道灌ですが、追分だんごの始まりとも深い関わりがあります。 時は江戸城の構築時まで遡ります。道灌が高井戸に立ち寄った際、中秋の名月に誘われ、家臣と共に歌の宴を張りました。そこへ地元の名族が手つきの団子を献上したところ、その味と名月の風雅とを喜び、機会があるごとに所望されたと伝えられています。 以降、道灌の徳を偲び、道灌団子として永く人々に親しまれました。
「新宿」という地名は、新しい宿という意味で名付けられています。
甲州道(現在の甲州街道)に存在する一番新しい宿がある場所として、また甲州道と青梅道の分かれ道、すなわち「追分」として様々な人が行き交う要所として発展を遂げました。
甲州路 目指して通う馬子歌の 声のどかなり 追分の宿
-追分だんご本舗創業者・藤井藤右ヱ門-
元禄十一年(一六九八年)頃、道灌団子を扱っていた茶屋も新宿追分に転移し、さらに人々に親しまれるようになり、「追分だんご」と呼ばれるようになったのです。
白い暖簾の小さな甘味処
昭和二十二年の夏、終戦間もない新宿三丁目に掛けられた「やなぎ家」という白い暖簾。これが現在の追分だんご本舗の始まりでした。
創業者の藤井藤右ヱ門は、町の老輩に「追分だんご」の成り立ちを聞き、新宿追分の地にその味を復活させようと思い立ちます。
伝統の味の継承と現代の味覚を合わせ、人々に喜ばれるお団子を模索する日々が続くなか、追分だんごは徐々に広まり、東京名物と呼ばれるほどに成長しました。
昭和四十一年一月に社名を「株式会社追分だんご本舗」に改名、さらに美味しいお団子を作るため、従業員一同気持ちを新たに再出発を迎えました。
今の時代に生きるお客さまの心に応える
美味しいお団子を作ることは一朝一夕でできることではありません。
美しい形状や色、味覚に対する感覚は時代とともに変化します。昔ながらの味を追求するだけではなく、今の時代に生きるお客さまの心に応えることが大切であると考えています。
平成を終え令和になった今もその看板は、新宿三丁目に掲げられ、今の時代のお客さまの心に応える商品を産み出し続けています。